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研数書院入社 [連載自分史「小さな昭和史」]

 アルバイト先の日本書籍では相変わらずの宛名書きの単純なしごとであったが、ある日この会社の戸村さんという労務課長に呼ばれた。

 「これはもうアルバイトの打ち切りかナ?」と覚悟を決めて労務課に出向く。戸村課長は、

 『永松君は京橋商業高校に行っているのだったね。簿記会計やそろばんは出来るね』

と、にこやかに聞く。 私は一瞬戸惑ったが 『はい』と元気よく返事した。

 『実はね―、私の知り合いの学習出版社で、経理の出来る人を探してくれと頼まれたもんでね。永松君は真面目そうで、ここのアルバイトもよくやって呉れているので、推薦しようと思ってね…』

思いがけない良い話が飛び込んできた。胸の高まりを押さえ、

 『ありがとうございます。ぜひよろしくお願いします』 と答えた。 課長は『それでは…』と早速受話器をとり、その出版社に電話されていたようだ。

 『明日にでも面接してくれるそうだから、履歴書を持って行くように…』

と住所、略図、電話番号を書いてくれた。「神田神保町2の17研数書院」とあった。

 「研数予備校で有名な研数学館の出版部だろうか?私は期待に胸をふくらませた。その晩はいろいろ想像し、「これで定職にありつける」と 嬉しくて眠れなかった。

  翌日、地図を頼りに研数書院を見つけた。神保町さくら通りの小さな店舗の二階が事務所だった。

 研数学館を想像していたので些か期待はずれだったが、約束の時間までその辺ををぶらぶらして気を落ち着かせ、

 『日本書籍の戸村さんの紹介で参りました』

と来意を告げ、その店舗の二階に上がった。8畳ほどの部屋で机が4つ置かれていた。

 白髪の眉毛の長い品の良い老人と、がっちりとした体格の色眼鏡をかけた中年の人、そして黒縁の近眼めがねをかけた 私と同年輩の3人が仕事をしていた。

   私は誰ともなく 階下で言った台詞を繰り返した。すると、がっちりした体格の色眼鏡の中年が、

 『あ、いらっしゃい。松永さんですね。上本です』

と、椅子をすすめた。銀行でもよく『松永』と間違えられる。

 『永松三郎と申します。やろしくおねがいします』

と、少し緊張して 用意した履歴書を渡す。

 上本社長は暫く履歴書を眺めていたが、仕事をしていた私と同年配の社員に声をかけた。

 『境君、君は物理学校の前は気象台だったね?』

 私はその「境」という人の顔を凝視した。うん、どこかで見たことがある、覚えがある、私はその境君に軽く会釈した。

 『私は養成所では大東亜省の委託生でした。境さんは確か「本台専修科生でしたね?』

境君は驚いたように私を見つめていたが、思い出したように、

 『あ、大手町で顔を合わせたことがありますね。話はしなかったけど…』

 上本社長は『よかった、よかった。むかしの仲間同士ならうまくやってゆけるだろう…』 と喜んでくれて、

 『実は仕事の方がようやく軌道に乗ってきたので、税務対策が必要になった。伝票、帳簿を整備しなければならなくなり、簿記・会計が出来る人という条件で頼んであったが、出版の会計が君の仕事になるが、やって貰えるだろうね』

と念を押された。

 『大丈夫だと思います。私の兄も経理専門なので、分からない所は兄に聞きますから…』 社長は安心したようだった。

 『それから、この際 個人経営から株式会社の法人にしようと思うので、その手続きもお願いするようになるから、よろしく頼みます』

 丁度話が終わった頃、背の高い躰のがっちりとした口髭をはやした中年の男が上がってきた。

 『やあやあ、疲れた疲れた。 只今もどりました』

 上本社長は

 『あ、丁度良かった。新人を紹介しておこう。ここにいるのが今度経理担当として働いて貰う永松君です』

 大男は営業部長の新里さんという。 そして在席している編集長の石野先生。私は丁寧に頭を下げて『よろしくお願いします』と挨拶した。

 これで研数書院入社決定である。何か、あっけない人生の転換である。

 


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